牛は農宝!『大山供養田植』

 

4年に1度しか見ることができない貴重な郷土芸能『大山供養田植(だいせんくようたうえ)』。

『大山供養田植』は、塩原地区(広島県庄原市東城町塩原)に古くから伝わる伝統行事です。国の重要無形民俗文化財に指定されている郷土芸能の1つで、現在は4年に一度しか行われない貴重なお祭りなのです!

 

どのくらい古くから伝えられてるの?

 大仙神社を通じての大山信仰に基づくものであることから、大仙神社の歴史とともに相当古いものだといわれています。嘉永7年に書かれた古文書のなかで宝暦年間(1751~1764年)に大仙神社で行われた行事について書かれているので、神社の歴史はそれより前にさかのぼることがわかります。

また、他の古文書に書かれていることから推察すると、大山供養田植の起源は中世なかごろにまでさかのぼることができるのではないかという説もあります。

 

『大山供養田植』ってどんなお祭り?

『大山供養田植』は、不慮の死にあった牛馬の霊を供養し、現在飼っている牛馬の安全と五穀豊穣・家内安全を祈念する大規模な祭りで「田植おどり」、「供養行事」、「しろかき」、「太鼓田植」、「お札収め」の五行事で構成されています。

 

現在は4年に一度(最近では2014年5月)、5月~6月の田植え時期に小奴可地区芸能保存会によって塩原地区の石神社前の田んぼで現地公開されています。

 

「田植おどり」

行事のはじめに、塩原地区の氏神様を祀る石神社の境内で行われます。天狗の面をつけ、手に扇子と榊を持った「露はらい」を先頭に、「ささらすり」「手打鉦」「拍子木」が続き、次に「くわじろ(鍬代)」、太鼓を肩から前に吊るした「さげ(左下)」と「編笠」、ゆかた姿の「そおとめ(早乙女)」が続きます。境内を一巡し隊形ががとれると、田植えおどりをはじめます。


「供養行事」

牛のつなぎ場から田んぼまでの道を挟んで両側に供養棚を作ります。田んぼに向かって右側に神職が、左側に僧侶が祭壇をしつらえて それぞれ神事、法要を行います。


その供養棚を牛が順に通る時、神職は祝詞をとなえて大幣(おおへい)で牛を浄め、牛の安全を祈念します。僧侶はお経を読みながら経本一巻ずつを鞍につけ、守護札も授けます。

 

神道、仏教が一緒になってお祭りをするというのが面白いですよね。

 

「しろかき」

田んぼに入った牛の列は、かきて(綱掻頭取 つなかきとうどり)の先導でぐるぐると田んぼの中を歩き回ります。これを「しろをかく」と言います。牛の足で泥をかきまわして耕すのです。


田んぼの歩き方はいくつかの古式の型があって、そのうちの1つを当日選んで歩きます。

牛が田んぼから出ると、「くわじろ」がえぶり(田んぼの土を平らにならす道具)を持って田んぼの面を平らにします。次に「苗まわし」が苗を配ります。


ちなみに牛が歩く型を記した綴りのことを「しろ本」もしくは「しろかき本」といいます。

 

書かれた年代がはっきりしているもので一番古いものは明治2年の「百性(姓)代綱本」で、33の型が記されています。次に古い明治4年の「しろかき本」には54型、明治7年のものには41型が記されていて、しろ本ごとに型の数や型の名称が異なっているというのは面白いですね。

 

「太鼓田植」

しろかきが済むと、田植おどりと同じ囃子にのって田植に参加する人々の行列が田んぼに進みます。さんばい苗持を務める3人の少女が神棚からさんばい苗を受け取り、田んぼに入ってそおとめ頭(早乙女頭)に手渡します。そおとめ頭から、そおとめが苗を受け取ると、最初にそれを植えます。

行列が田んぼに着いて、そうとめが苗を受け取ると、綱引きが綱をはりさげの太鼓がはじまります。さげが田植歌の上歌を歌い、それにあわせてそおとめは苗を植えながら下歌を唱和します。


綱引きが田んぼに綱をはるのは、そうとめが苗を植える位置を横のそうとめと合わせる目安にするためです。


 

「お札収め」

供養田植が終わると供養棚の上に祀っていた供養札を、後日、大仙神社に納めに行きます。


田植えの食事『おひるごっつぉ』ってどんなもの?

昔は「手間替え」といって、組内(近所)の家のものが集まって一軒ずつ順番に田植えをしていました。田植えをする家では、手伝いに来てくれた組内の人に食事をつくって出していました。

集まる人数はだいたい20~30人、多いところでは40人もいたそうで、炊くお米の量は1斗(1斗=10升=100合)にもなるので、ご飯は大釜で炊いていたそうです。


お昼にはごちそうが出されました。『おひるごっつぉ(お昼のごちそう)』と呼ばれ、手伝いの人の楽しみだったようです。出されたのは、「煮しめ」や「チシャモミ(ちしゃなます)」、「白和え」、「ねぎのぬた」などでした。特に「煮しめ」と「チシャモミ」は田植えにはつきものとされていました。


煮しめは、切干しダイコン、タケノコ、フキ、ズイキ(里芋の茎)などで、さらにサバの煮つけを添えるところもありました。

昔は「田植えサバ」といわれて田植え時期にたくさんのサバを買ったそうです。酢サバにしたり煮つけにしたりしてふるまっていました。


ご飯は、麦を入れない、お米だけで炊いた白ごはんでした。お米の収穫量が多い米どころ以外の農家では、普段はお米の1割から、多いところで5割の麦を交ぜてご飯を炊いていたので白ごはんは

特別なものでした。

 

また、お酒も出されたので、お酒を飲みながらごちそうを囲んで、みんなで楽しいひとときを過ごしました。

 

動力がない時代、田植えは大変な重労働で体力的に相当きつかったと思いますが、組内の人と協力しながら農作業をすすめ、ごちそうを一緒に食べるなんて、なんだか楽しいイベントみたいですね。


煮しめは、ほおの葉に包んで手伝いの人への手土産にしていました。こどもたちはこのおいしい手土産を楽しみに家で待っていたそうです。


「大山供養田植」の日には、地元の女性が集まって煮しめなどを作り、それをほおの葉に包んで田植に参加する人々にふるまいます。

 

ちなみに、田植えは朝早いので、朝ご飯も出すところが多かったようです。

朝ご飯には、ごはんにみそ汁、漬物が主で、家によってはクサギナと豆の炒り煮をだすところもあったそうです。


ただ、シロカキサン(苗が植えられるよう田んぼの代掻きをする男衆)はとても早くから来たので、シロカキサンには、来るとすぐご飯のコガリ(おこげ)に塩をふったものも出していました。

 


参考文献:『東城町史 自然環境考古民俗資料編』(東城町 1996年)


                                                                                                        by RIE KIKKAWA

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